入院2016/08/22 10:37

前のブログを書いた2時間後だか3時間後だか、
猛烈な痛みの発作が起こり、死に物狂いで救急車を呼んだ。

で、そのまま入院..
昨日の昼過ぎまであまりの痛みに半分死にかけている状態
だったが、
ようやく痛み止めが出て、やっと人心地ついた。

苦痛に必死で耐えている最中、
看護師さんが優しい人のときは、
まだ救われる。
きつい人だと、もう絶望的。

感情を表現するということ2016/07/25 06:18

これまで見知ってきた文章の世界では、
いかに感情を正確に、生々しく表現しきるかに、心血を注がれたような文章が多く、
そこにまた、感情移入しようとする私もいた。

心の襞に刻み込まれた微妙な感情の起伏、
肉親との些末な日常に貫かれる情緒の波、
絶望や孤独や喪失感や、、、
そんなあんなを、ヴィヴィッドに、あるいは染み渡るように、
表現されてきた言葉の数々。

最近、そういった文学的な表現から遠い人たちと接することが多く、
快と不快で動いているかのような人々と接していると、
とても心が疲弊してくるのだが、
上にあげた微妙な心理描写にも疲れてきた。

先月、久しぶりに出かけた万葉集勉強会で、
当時の人のパターン化された感情表現に接して、
何か痛快であったのは、
情緒表現のために身を削るような近代以降の文学に疲れ果てていたからかもしれない。
いや、文学というよりも、
それら文章表現に過剰に情緒を載せていた自分の問題なのだろう。

「あかねさす紫野行き標野行き・・・」のあの有名な歌に、
元夫婦の微妙なやり取りが伝えられてきているが、
大海人皇子と額田王の関係にロマンを感じてきた、という人が、
「宴席の歌」だと説明されて、がっかりしていた。
「ロマンを感じる」というのがそもそもとても近代的な情緒表現だと思うけれど、こうして、解析されて身も蓋もない話になる方が、私には心地よい。

が、快・不快だけを表現するかのような、団体の人とのつきあいも、
末永くは、無理っぽい。
事務局長は、今年限りだ。
体調が悪く、仕事も波状的に生じるので、これらに対処している間に、
本を書く、という本来、最もやるべき自分の仕事ができなくなった。

「本の仕事、断った」と友人に言ったら、
「それこそ、あなたの本当にやりたいことではないの?」と、びっくりしていた。
それを、ボランティアの雑務で諦めたの? と言葉を失っていた。

仕事の優先順位は、緊急度で決まってしまう。
明日までにやらねばならない雑用は、一か月後のキャリアにつながる仕事よりも優先されるのだ。
急ぎの雑用をこなしている間に、本来の仕事ができなくなる。

本の発行元の人は、
「お待ちします」と返事をくれたので、
とりあえず、書く方向で、という返事はした。
しかし、いつ書けるかわからないので、他の人に頼んでくれたらいい、と伝えてあるが、
私以外に考えていない、とのお答え。
その会社の広告には、私が書くべき本の発行予定が書いてある。まだ一字も書いていないんですが・・・
それ、プレッシャーです・・・

ブログやSNSが発達して、
感情表現の様式がずいぶん変わった。
もう、「感情」には疲れたわ。
表現、と言うより、感情に疲れたのかも。

人間関係のスキル2016/07/17 10:23

子育ても含め、人との対応というのは、しみじみスキルの要るものだなと思う。

私は、もともと、優しい方がよいと思っていた。
厳しく接すると、相手をいじけさせて良くないと思っていた。

だが、やっぱり、そのような二分法ではなくて、
もっとスキルを磨く必要があったのだと思うようになった。
って、なんで今頃、気づいてるんだよっ、とつっこまれそう(汗)

もう、人生の終わりかけの頃に、今更、気づいても遅い、と言えば遅いのだけど、まぁ、いくつになっても気づきは大事です、ということで、、、。

相手をいじけさせてはいけない。
それは正しいと思う。
いじけると、その人(子)が持っている能力が十分に発揮されない、延びるべき力も延ばせない。
極端な例を言うと、虐待されて育つと、生き延びることにエネルギーを使わないといけないし、不安定になった心のバランスを取ることに消耗するから、人生をマイナスから始めないといけないハンディを背負う。
もちろん、それでも、辛い過去をむしろ糧に成長する人もいるから一概には言えないが、
ハッピーなのはやはり良いのではないかと思っている。

しかし、個人差が大きくて、何一つ一概には言ってしまえないのだ。
優しくすると、図に乗る人もいるのは事実だ。
大人ともなると、優しい相手はなめてかかる人もいる。

相手が誰であろうと、基本的なリスペクトを持って向き合う、というのは、言うほどたやすいことではないようだ。

私の友人で、年がら年中、同居の実母と喧嘩をしている人がいる。
その人を見ていると、関係の近さが、距離の取り方を見えなくさせているように思う。
母親がそういう距離感のないタイプだと、子どももそれが普通になる。
こういう関係の作り方をする人は、親しくなればなるほど、遠慮がなくなり、わがままにふるまい出す。
距離感がわからなくなるのだろうと思う。
で、基本的なリスペクトも忘れ去ってしまうように見える。
(昔の人は、「親しき仲にも礼儀あり」という、含蓄の深い言葉を残しているが。)

私の父親は、自分の娘は自分が支配できると思っていた。
私が、ご承知のように(笑)、父の理不尽と思える要求に徹底的に抗弁するタイプの子どもだったので、
理論的に私を屈服させられないと思うと、
時には身体的暴力に及び、時には恫喝した。
「昔なら、父親の言うことをきかない子どもは、殺してもいいんだ」と。
この言葉に、小学生だった私は、絶望的な無力感を抱いたことを覚えている。
こういう扱いは、子どもの人生観に影を落とす。
しかし、時代をさかのぼればさかのぼるほど、親は子どもへの支配権を疑わず、それを強権的に行使していた人は多いだろう。
社会通念としてそれでOKだった時代は、子どもはただ親を恐れていればよかったのだが、
そうではない時代に育った人のメンタリティは違う。

国連の「子ども権利条約」を、日本は20年以上も前に批准しているが、
その存在を知らない人も多いようだ。
条約には、子どもの自律的な権利がきちんとうたわれている。
子ども自身が意思表明をする権利も、養育、保護を受ける権利も盛り込まれている。

ただでさえ忙しい日常生活の中で、親は子どもを養育しなければならず、保護しなければならず、憎たらしいことを言われても耐えたうえで、しつけをしなければならず、脅しや強権支配ではなくましてや身体的暴力などとんでもないという制約の中で、子どもを一人の社会人として導かなければならない。
子ども自体も、手のかからないタイプの子どももいれば、
期待した年齢通りに生長しない子どもも多い。
まさに高度なスキルを必要とする人生の試練だ。

同様に、大人同士でもスキルが要る。
それも、一通りのスキルでは役に立たない。
個々に事象に沿ったスキルを身につけないとどうしようもない。

それに疲れた頃に、人生が終わるのかぁ、、、。
やれやれ~。
(書いている間に、疲れてしまったわ・・・)

ブショネ2016/04/01 20:20

立て続けにブログを書いているのは、
書かなきゃいけない原稿のためにパソコンの前に座っているのに、
全然はかどらないから(^^;)

タイトルの「ブショネ」
最近、知りました。

私は赤ワインがとっても好きなので、
晩御飯の友は、たいてい赤ワインです。

先日、あるおしゃれな店で友人とイタリアンな食事をしました。
ワインとチーズが売りで、ちょっと通(つう)な感じの店。
固定ファンも多いようで、カウンターには一人で来ている若い女性や男性客。

で、ここのワイン、結構高めなのですが、
そして、すっごく楽しみだったのですが、
ワインが変な匂い。
何度匂いを嗅いでも、変。
友人にもみてもらうと、友人も眉をひそめます。
「上等なワインって、こんなもの? まさかね」
と、サーブをしてくれている店員さんを呼びます。
店員さん「ソムリエに言います」。
で、なんだかちょっとプライド高そうなソムリエ(?)が席まで来ました。
この人、以前、来た時と同じ人ですが、ちょっとプライド高そうで、あんまりサービス業に向いている感じはしない女性です。
彼女曰く
「テイスティングしましたけれども、同じものを飲んでもみましたけれども、問題はございません」とのこと。
「それなら、いいです」と、こちらの気のせいにして、
続けて飲んでみるけど、やっぱりダメ。

変な匂いって、どういうのかと言うと、
あるサイトにぴったりの表現が書いてありましたが、
「雑巾を陰干し」したような匂いです。

やっぱり飲めなくて、結局、安くないそのワインを残しました。

で、帰ってから調べましたら、
「ブショネ」というものだそうです。
それは、バクテリアに汚染されたワインなんだそうです。
ワイン生産量の3~7%の率で存在するのだそうです。
で、ソムリエでもわからない場合も多く、開けたばかりのワインだったりすると、わからないことがあるとか?

3~7%って、一生当たらない人もいそう。
こういうのだけは、当たるのね、私。

わからずに飲んでもからだに害はないらしいですが、
そのせいかどうかわかりませんが、その夜、トイレに通うこと5回くらい。
食べたものがよくなかった、としか思えない。
友人と二人、
あこがれだったその店ですが、
これからはやめとこう、という結論でした。

事件の真相2016/03/31 20:00

昨夜寝る前にちょっと、と思って開いた本がやめられなくて、結局、夜中まで読み通すことに。

嘗て、高校生のいじめによる自殺と報道された事件の真相を取材している本です。
なぜ、この本を読んだかというと、事件の真相がマスコミ報道とは真逆である、ということを証した本だと解説に書かれていたからです。



最近の学校にはいじめがある、体育会系のクラブにはしごきがある、いじめに悩んで自殺した生徒が何人もいる、学校は隠ぺい体質で事実を認めない、、、ほんとうにこうしたことが多発しているのでしょう。
だから、上記の本に取り上げられた事件でも、パターン化された思い込みのストーリーが世間を駆け巡ったようです。
でも、実際にかかわった人たち、ごく身近な人たちは、事実は違う、ということを知っています。
事件から遠い人ほど、パターン化された思い込みだけで裁定しがちです。
そして、パターン化されたストーリーに乗っかる「被害者」(この本では実際は加害者)もいます。

人々の思い込みに働きかけて信じさせるのが、一番イージーです。

最近の学校にはいじめが多い、学校は隠ぺい体質である、いじめを認めない教師たちは人権意識が欠落している、、、、

これは流通している思い込み。
このストーリーに乗っかった推理が人々を安心させます。
「そうでしょ、そうでしょ」と、それ以上、考えずに済みます。
新たな責任者を探したり、自分自身をも問い直さねばならないなんて、誰でも不安になり、落ち着きません。
だから、流通しているストーリーが一番、受け入れられやすい。

しかし、上記の本の事件は、「いじめで息子に自殺されたと学校を訴えた母親」の方に問題があることが明らかになっていきます。
身近な人たちには明白な事実なのですが、そこから遠い人ほどその事件の特異性がわかりません。
人々はどこまでも、わかりやすいパターン化されたストーリーにしがみつきます。

なぜ、私がこの本に興味を持ったかと言うと、やはり、流通しているパターン化されたストーリーが人々に難なく信じられ、真相がちゃんと認識されない事件に遭遇したからです。
ちゃんと見れば、わかるけれど、そんなに人々はちゃんと見ていません。
自分に興味のある部分をつまみ食いしているだけで、あとはイージーな既成のストーリーに身をゆだねて判断しています。
どんなに賢明な人でも、この過ちは犯しがちでした。

流通する噂というものも、信じやすいストーリーに沿っていると、人々は思い込みを強化します。

何度か類似の出来事を経験して、
どんなことがあっても、予断や思い込みで事にあたってはいけないと、
肝に銘じておこうと思うようになりました。