忘却力2021/06/16 23:06

いろいろ、苦い思い出というものはあって、
特に最近は、コロナで引きこもっているので、
あんまり良くないことを思い出すことも増えた。

今日も、ちょっとした出来事を思い出した。

苦い記憶だ。

だが、悶絶するようなことでもない。
ざらざらした味わいの記憶なのだが、
たまに思い出して、苦さを感じる程度。

そのざらざら加減の最たるものは、
相手が忘れ去っていること。
指摘しても、もはや相手の記憶にないのだから、
こちらはすごすごと引き下がるしかない。

いや、相手の方は、そもそも記憶にとどめる、ということすら、
最初からないのかもしれない。

マイクロアグレッションという言葉が最近よく使われる。

うまいこと言うね。

そういうことが数知れずあったけれども、
いちいち言い立てるべきことではない、と飲み込んできたことの数々。

社会的な文脈で使われるらしいが、
個人的にも多々生じていることだ。

相手のちょっとした嫉妬心、
ちょっとしたイラつき、
そんなものがマイクロアグレッションにつながる。
私は、「個人的な悩み」が多く、なかなかそれを社会的文脈に変換できない。

本当は社会的文脈に読み替えられるのだろうけど、
それをするためのエネルギーが足りない。

マイクロアグレッションを浴び続けると、エネルギーを奪われる。
弱い人格ができる。

そういったことをちゃんと発言していけばいいのだけど、
そのエネルギーが枯れているのよね。

マイクロアグレッションは、本人に意識がないから、記憶も作られていない。
参ったわ。
ただただ、参るだけだわ。
こっちが参っている間にも、
その忘却力で、相手はパワーアップしている、という理不尽さ。

まあ、私もそういうことを誰かにやらかしているのかもしれない、という自戒だけは持っていた方がいいのだろう。

ちょっといい話2021/04/21 19:40

3月の末に、疲れ果てたイベントの後、
手伝ってくれた友人と晩御飯を食べに入った居酒屋さん。
もともとメインはお寿司屋さんだったのかもしれないが、
とにかく、比較的おいしくて、まあ、常道を守っている店だ。
結構、昔からある近所の店。

たまにしか行かないが、
以前、知っていた大将みたいな人ではなく、
若手が接客をしていた。

で、なかなか今どきの接客上手の若者と見えていた。

その日、私は疲労困憊していたので、
久しぶりにビールを飲んで、ホッとしていた。
で、メニューを見るために出した老眼鏡を置き忘れたらしい。
数日してから、気づいた。
あれ? いつからないんだろう、あの眼鏡。
いくつか、予備があるので、あんまり真剣に探さなかったが、
いよいよ本当に失くしたみたいだと思うと、結構、悲しい。
気に入っていたから。

一緒にその店に行った友人に、
眼鏡を失くした話をしたら、
「店に聞いてみれば?」と言う。
しかし、もう、何日も経っているし、
あの店に忘れたとしても、
「とっくに紙でつかんでゴミ箱にポイと思うよ」と私は言っていた。
そして、新しい眼鏡をあつらえた。
友人は、店に聞いてみた? と何度も言うのだけど、
「ないに決まっている」と私は聞いてみる気も起きなかった。

眼鏡を失くした上に、迷惑そうにけんもほろろの対応をされたら、
落ち込んでしまう。
絶対、そんな経験は、増やしたくない。
私はただでさえ、傷ついて生きてきたのだ。

すると、友人が電話をしてくれたそうなのだ。
そして、私の眼鏡(実は、ユニークな特徴のある眼鏡)らしきものが、
届いている、との返事があったそうだ。
「え? 置いているの?」と、そこで私はびっくり。
コロナのこの時期、客が忘れた眼鏡なんか、誰が置いといてくれるだろう。
紙でつかんで、ゴキブリみたいにポイされると思い込んでいた。

で、友人が電話で聞いてくれた後、さらに二日後の今日、
店を訪ねたら、
丁度、昼休みの書き入れ時を終えたらしい感じで、
例の若者が店の前で何か用事をしていた。
私が声をかけると、
「お一人様ですか?」と聞くので、
「いえ、お忙しいのに、ごめんなさい」と、電話をしたものだと名乗ったら、
即座に私の名前を言い、すぐにナイロン袋(食べ物屋さんらしい食品保存用の真新しい袋)に入れた眼鏡を渡してくれた。
紛れもなく、私の眼鏡。

おー!
こんなに親切に対応?
知らなかった。人がこんなに親切だなんて。
(どんなにひどい目に遭ってきたのだ!という感じだけど。)

世の中も捨てたもんじゃない、と感激。
洋菓子屋さんで、とりあえず、クッキーの手土産を買って行って、よかった!

なんか、わからないけど、
まだ、ひどい目に遭ったいろいろなトラウマが消えたわけではないけど、優しい人もいるのだと思って、うれしかった話だ。

道を歩いても、おっさんはひどいのが多い。
ぶつかりそうになっても、1ミリも道を譲る気配もない。
こちらのからだのよけ方が甘いと、すごい勢いでなぎ倒される感じ。

こちらが年よりの女だと見ると、
優しく丁寧になる人と、容赦ない人に分かれるような気がする。
総じて、年配の男がひどい。

ひどい扱いばかり受けて来て、
優しくされ慣れないので、今更のように、世の中を見直した感じ。
そして、世の中をまだちゃんと信じている友人にも感謝、かな。

やっと、、、2021/02/09 19:20

「女性が多い理事会は時間がかかる」というような
大昔に滅んだかと思うようなおじいさんの発言が物議をかもしている。

そして、こんな屈辱に、数えきれないほどさらされ、
踏みつけられてきた私は、
今、若い世代を中心に批判が広がっていて、まだおさまる気配のないことに、
驚きやら、感動やら、心を揺さぶられっぱなし。

ようやくこういう時代が来たのか、、、。

いつもいつも思い出す光景がある。
14年前に病を得て退職した職場。
新参の管理職だった私は、「運営会議」という名の役職者会議で、
いろいろ議論をするのだと思っていた。
内規のどこにも位置づけのない会議なので、
その会議で話し合いをして、内規に載っている正式の会議で諮るのだと思っていた。
が、すべては、内規のどこにも載っていないその会議で決まるという実態にびっくりした。

そして、もっとびっくりしたのは、
その会議で、そもそも「議論」がなかったことだ。
私が話を向けても、誰も意見を言わない。
役員は、あれだけ現場を牛耳っているのに、意見を言わない。
何? 
私の頭の中は、?が飛び交った。
そして、いつの間にか、奇妙な物事の決まり方をするのに気づいた。
つまり、水面下で、影の権力を握っている者がいつの間にか方向性を誘導しているのだ。
それは、巧み過ぎて、ぬえのようにつかめないものだった。

すべては、私の敗北につながっていた。
議論をしないのに、どこで意思決定するのか?

私が気づいて動いたことは、また巧みに潰されていった。
私より上位にある人をうまく使って、私の行動は抑え込まれ、圧迫された。

そうなのだ。私はその職場ですべてにわたって、失敗したのだ。
目くばせよりも、意見を聞きたい。
水面下ではなく、会議の場で話し合いたい。
問題は言語化したい。
規則にある通りの指示命令系統が機能するべきだ。
そうでなければ、責任が取れないではないか。

しかし、ことごとく、私の考えとは真逆の「掟」が支配していた。
そして、わけのわからぬ蠢きにむしばまれ、
私は敗退した。

14年経っても、あの悔しさは忘れない。
あの連中の卑怯さは忘れない。
それは男たちではなく、女たちだった。

私は、あの短い間に、命を懸けて戦ったからね、
人生をかけて、あの不正をただしたいのだ。
そうしたら、今、
「どこの場でも、原理原則を貫くべきだ」という意見が出てきている。
そう、そうなのよ!
それが私が言いたかったことだよ。
ずっと言ってきたことだよ。
(声が小さいから、聞く耳を持たない人には聞こえなかったかもしれないが。)

しかしまた、思うのだ。
正式な会議で意見を言わなかったあの卑怯な連中は、
今ごろきっと、
女たちの味方のふりして、
恥ずかしげもなく、「正義」に寄り添っているんだろうなぁ、と。

もう誰にも、こんな辛い思いはしてほしくない2020/12/19 21:46

標題の気持ちはほんとうだ。

大事な人が事故死してしまった、という人の記事を読んでいたら、
「もう、誰にもこんな思いはしてほしくない」と、
残された人が語ったと書いてあった。
他にも、同じことを言う人のことを何度も読んだことがある。

自分自身がそこまで辛い思いをしたことがなかったとき、
スルーしてしまっていた表現だ。

が、17年以上も前のことだが、
夫が亡くなったとき、苦しくて苦しくてたまらなかった。
この世にこんな辛いことがあるだろうかと思った。
この辛さを逃れるためには、自死するより仕方がない、
でも、子どもたちのことを思うと、これ以上、悲しい思いをさせるわけにはいかない、と、
引き裂かれそうになりながら、生き続けた。
その時に、そう思った。
心から、もうこれ以上、誰にもこんな辛い思いをしてほしくない、と思った。
それが何を意味するのか、実は、私はまだ解明できていない。

他の誰かに同じことが起こるたびに、
この苦しみがよみがえるのを回避したかったのか。
私の夫が亡くなったのを知った時、
1年ほど前に夫を亡くした人が、私のその知らせを聞いて、
電話の向こうで泣いた。
「私が夫の亡くなった悲しみをいつも聞いてもらっていたから、あなたもそんなことになったのか、、、」と、その人は泣いた。

夫が亡くなったことは、今も私を泣かせる。
死ぬまで苦しむだろう。

亡くなってはいけないのだ。
いるべき人は、いなくなってはいけないのだ。

知人のお母さんは、100歳を超えて亡くなられた。
それくらいになると、ようやく、人は苦しみよりも、
「見送る」思いが勝るのだろうか。

そうでないといけない。
誰も、いるべき人を失くしてはいけない。
本当に、そう、思うのだ。

戦後の民主主義2020/08/11 09:52

私は戦後の生まれだから、高度経済成長の申し子のような世代の人間だ。

家庭環境もあるのだろうが、使い捨てが推奨され、常に新品を購入することが良いことのような空気があって、
特に母がそうだったせいか、
私は、いつも新しい物を持っていた。
未だに、中古は苦手だ。
他人の使った物をもらい受けるなど、とんでもない、という感じだ。

子どもの頃、社会には、民主主義の到来を、まだ喜んでいるような空気が漂っていた。
小学校、中学校ではしつけが中心で、「ちゃんとしないといけない」という空気があったが、
高校に入った時、その自由な空気にめまいがしそうだった。
当時の京都は蜷川府政。おそらく、その革新の息吹が教員たちにも共有されていたのだろう。
自由と平等を享受し、それを生徒にも伝えようとする教員たちの明るい表情が、私にも希望を与えるものだった。

カリキュラムは基本的に個人単位。
もちろん、学年制なので、学年をまたぐことはできなかったが、
いくつかの選択科目から自分で選び、自分で履修科目を構成する。
全く同じカリキュラムの人は、クラスに一人もいなかった。
ホームルームの机は一応指定されているが、
そこに物は入れない。
ほぼ、毎時間、カバンを持って、受講する教室に移動するからだ。
休憩時間は、常に、移動する生徒が流れている。
親しい友人に会うと、
「次、何の科目受けるの?」という会話がしょっちゅう交わされる。

朝、登校すると、必ず掲示板を見る。
休講通知が出ているので、休講を確認したときは、「さて、何をしようか、どこに行こうか」ということになる。
午後の休講だと、帰宅する生徒も多い。
私も帰宅組だった。
1時間目が休講だとわかっている日は、登校も遅い。

科目によっては、席が決まっていないので、座る場所も自由。
好きな科目だったりすると、かぶりつきに座る。

「この科目が、入試に関係のない人は、後ろの席で内職してよろしい」と言うような先生もいた。

制服の指定はあったが、
制服廃止キャンペーンを張っていた生徒会の役員たちによると、
「制服ではなくて、標準服だから、着ることは強制されていない」とのことだった。
それでも、制服を着せようとする統制型の体育の教員などがいて、
生徒との攻防が盛んだった。
が、体育の教員もさまざまで、
「鬼の××、仏の〇〇」と称されている二人の男子体育の教員がいた。
実際、「仏の〇〇」がホームルームの担任になったとき、
その穏やかさに感嘆した。
こういう大人になりたい、と切に思った。

男子は詰襟の学生服だったが、全員が着ているわけではなく、
ダークな色のセーターやカーディガンをいつも着用している生徒もいた。
あるホームルームで制服談議になったとき、一人の女子が、
「詰襟の制服を着ている男子は素敵に見える」と発言したら、
カーディガン派の生徒が、
「俺、明日から制服着よっ」と言って笑わせていた。
ある男子学生は、詰襟の下に派手なオレンジ色のセーターを着ていて、どこにいても目立っていた。
暑かったのか、たまたま教室で制服を脱いだとき、
一瞬言葉を失った教員は、
「派手な色やなぁ。目がちかちかするわ」と苦笑していた。
女子は、基本的に制服の上着(これは実は気に入っていた)の下に着用するブラウスの規定がなく、(たぶん、白とは書かれていたのだと思う)、
私もフリルやレースのついたブラウスを着ていて、女子のブラウスはどの人もなかなか華やかだった。

靴について、戦後すぐに作られた校則だったのか、
「赤い靴はいけない」とのみ書かれていた。
だから、私たちの世代は、「赤い靴でなければいいんだ」と解釈し、私も冬は、白いブーツをはいていた。
「なんで、そんなしゃれた格好してんねん。君は、おしゃれなんかしないで、家で青い顔をして受験勉強してると思ってた」と漢文の教員に言われた。
受験勉強なんかしていないが、そう誤認識されていたことが結構ショックだった。

とにかく、平和で牧歌的で、穏やかな教員と生徒たちが集まっている学校だった。
振り返る限り、あまり何かを愛する気持ちが薄い私でも、高校時代は良かったと思っている。
個人的には孤独で、家に帰れば親との闘いが続く日々だったが、高校は良かった。

わが校は、六三三一四制だと、一年先輩の生徒が言っていたが、
確かに、一浪して大学に入った生徒が多かったようだ。
社会科の教員は、
「わが校は、昔は秀才が集まっている名門校だったのに、今は何だ、君らは縁側で日向ぼっこしてぼーっとしている老人みたいだ」と、嘆いていた。

そうなのだ、その日向ぼっこしている老人のような平和で鷹揚な雰囲気が私を救っていた。

そして、教員側にも、基本的に生徒の自主性と尊厳を重んじる姿勢が貫かれていた。何か申し合わせがあったのか、やはり、当時の政治的姿勢が反映されていたのか、
戦後の平和と民主主義の訪れを、教員たちはほんとうに喜んでいる感じがした。
これを享受し、維持しよう、という意欲を感じていた。

府内では、毎年、各高校から希望者を募って、討論集会が行われていた。
希望者だけなのだが、結構、参加する生徒も多く、私も毎年参加した記憶がある。
各分科会に分かれるのだが、テーマは部落問題や人権問題などの、政治社会的な問題から、友情や恋愛までさまざまだった。
バスに乗って、会場となっている他の高校へ移動した。
同じ高校生でありながら、理論的な発言をしていく生徒たちに圧倒された。
私はどうしても、部落問題をわかりたかった。党派的な主張と人権論がどうずれるのか、どうしても知りたかった。
今は党派自体が変容しているので当てはまらないが、当時は共産党系と社会党系と、新左翼系の主張が錯綜していて、私にはわからなかったのだ。
党派的に落ち着きたかった。
しかし、誘われて参加した党派は、私には違和感があった。そして、抜けた。
もちろん、数年後には、その違和感の正体を言語化することができ、私は今日的な問題意識を持っていたのだと思えるのだが、当時は苦しんだ。
平和ボケしているような同級生の中で、学校自体はよきものを醸し出していたが、個人的にはいろいろ悩んだ時代だ。

そして、今の時代、あの民主主義の日差しは陰っている。
現政権ののらりくらりは、あの時代の悪しき継承かも。