70歳の自己像2020/12/10 08:55

なぜ、こんなに「自分」というものを振り返り続けるのか、を考えると、
やはり、自己肯定感を養成できなかった生育状況と関わっているのだと思える。
今朝、はっきりまだ起き切れていない時間帯に、
7時になると、アラーム代わりにオンになるテレビで、
子ども時代の虐待経験が、大人になっても人間関係などに支障をきたしている事象を取り上げていた。

経験がない人には、どうもピンとこないようなのだが、よく言われるように、幼少期の経験はその後の人格形成に確実に影響を与えている。
良くも悪くも、その後の人生の効果に多大な影響を与え続ける。
外から見えにくい内面の状況に思いを致すのは、ほんとうに厄介だ。
だから、カウンセリングや自己語りなどの場で、何度も自分を見つめ、考え続ける。
もちろん、自省に向かわないで、もっぱら他責に終始する人もいるだろうが、そういう人は、大人になって家族を傷つけることになったりする。
そういう大人の下で養育されると、今度は子どもが、終生、負荷を背負う。

私の育った家族、親族圏内は、陰気な感じがするところだった。
京都、という地域性なのか、
大阪市内に根を張る親族を持つ夫との結婚式では、夫側は陽気で笑い声が絶えず、
私の親族席は、お通夜みたいだった。

普段からネガティブで、小声でしか話さない、親戚筋のおばさんたちは、たぶん、母も若い頃、苦手だったのだろうと思う。
だから、全く異文化の、京都の丹後地方出身の父と結婚したのだろう。
母の切実な「息がしたい」という願望の表れだったのかもしれない。
父方が陽気な文化を持っていたとは思わない。
母方の親戚のおばさんたちは父のことを「田舎者」と陰口を言っていたそうだが、若い母は、その息の詰まるような京都文化の方が耐えがたかったのだろう。
この二人の間に生まれた私の目には、それが正しい選択だったとは思えないが、小さな世界を生きるしかなかった母には、京都市内の息苦しさから逃れられれば何でもよかったのかもしれない。
若い母が無意識に、切羽詰まって、息詰まる境遇から逃げ出す選択をしたのは、納得のいく解釈だ。
その結果、私の育った家庭では、母は、わがままで伸び伸びしていた。
はばかることなく、ミー・ファーストで、私は一人っ子だったが、自己中で気まぐれな年の離れたお姉さんがいるような環境だった。
気分によってかわいがってくれるが、気分によって全く無関心になる、少女のような母だった。
少女がお人形に服を着せて遊ぶように、次から次、新しいきれいな服を私に着せ、私は「両親から溺愛されて育っているひとり娘」であるかのように、外からは見えていたらしい。

母が、自分の親戚筋とは距離を置き、父方つまり夫の方の親戚とよく交流していたのも、母の脆弱な自己肯定感を保つのに役立ったのだろう。
「田舎者」の父方の親戚からは、あたかもヴィーナスのように讃えられていたから。

そうした環境下で育った自分について、私は解釈を誤っていたと、最近思う。
なぜ、あそこまで私は、父に嫌われ、否定され、いじめられていたのかがわからなかった。
父は自分の尊厳を保つために、母はあまりにも自己中で私に無関心だったから、だと思っていた。

確かにそれも、一面だろう。
が、このコロナ禍で、ずっと家にいる時間が長く、あまり周囲に合わせて自己調整をしなくなって、
ふと、体調が良いときの自分が、とても「やんちゃ」だと思うことが増えた。
これまでも、私を知っている人が、時折、
「M吉さんって、やんちゃよね」と言うことはあった。
夫も、生前、長く私と暮らしてきた後、ふと言った。
「君は、やんちゃ坊主や」と。

それで感覚的な経験が甦った。
小さいとき、男の子みたいな行動を取っていたこと。
男の子たちのすることを一緒にしようとして、失敗したり、男の子たちから追い返されたりしていたこと。
なぜ、女が混じっているんだと、いやがる男の子がいたりして、結局、排除されてしまう。
でも、女の子とはどのように遊んでいいのかわからなかった。
女の子の遊びもわけがわからなくて、つまらなかった。

ずっと、自分は女の皮をかぶった男なのだ、という感じを持ち続けていた。
それを性自認に結び付けて考えたりしてきた。
「女」であることを矯正され過ぎて、その行動様式を学んだけれども、本当は「女」ではないという感じを持っていた。

しかし、今のこの内面の状況を描写するならば、
単なる「やんちゃ」というのが最も近い。

それで思うのだ。
「男」「女」というカテゴリーはとりあえず、横に置いておいて、
私はやんちゃな幼児だった。
が、そのやんちゃさは、私の両親にとって、女の子にはあるまじき気質だった。
だから、ものすごい勢いで、私のあるがままを否定し、
矯正しきれない私を嫌悪していたのだろうと思う。
それを10数年、両親が二人で、1日たりとも手をゆるめずに続けていれば、私の精神状態が危うくなるのは当たり前だろう。
この世のどこにも居場所がない感じ、生きていくことができない感じ、後年「小児ウツ」という語を聞いて、10歳ころの私は、今ならそういう診断が出たかもしれないと思う。
10歳や11歳の子どもが、「死にたい」と思うだろうか?
毎晩、毎晩、泣きながら、「どうか、この醜悪な怪物の私を、早く誰か駆逐しに来てください」と、願うだろうか?
「誰か、私を殺してください」と、自分への憎しみに燃えて、激しく嗚咽しながら、ノートに書きなぐる11歳の子どもが、ハッピーだったと言えるだろうか。

お転婆な女の子は世の中にたくさんいる、男の子みたいな女の子もたくさんいる、見た目が男のようであっても女性の「性自認」が揺らいだことがない、という人も、たくさん知っている。

そのレベルで解釈する限り、私は、ジェンダーアイデンティティというようなラベルの枠組みとは違うところ、
つまり、ジェンダー・バイアスによって苦しめられた、ということになる。
つまり、と~ってもよくある、フェミニズムの初期定義、「女らしさ」の軛に苦しめられた「あるある体験」だったことになる。

では、なぜ、ジェンダー・バイアスだけで、自分の内面を説明できなかったのか、というのは、もうちょっと時間をかけて考えたいかな。
ジェンダー・アイデンティティ形成と関りがないとは言えない経験と実感がある、からなのだが、
朝の思いつきではちょっと無理っぽい。

ブログを覚書に使うと、便利。
やめるのを、もうちょっとやめようか。