前向きではない話2019/09/28 11:06

前向きで、希望にあふれる話が好まれるのだが、
そのことは知っているのだが、
どうもそういうのが退屈だという本音もある。
NHKの朝ドラは、そういう意味で、ハッピーエンドという後味の良いお約束があるから、
たぶん、面白みに欠けるというのもあるのだろうな。
毎朝、とりあえず、時計代わりに点けているが、
変わり映えせんなぁ、といつも思う。

トルストイの有名なことばに
「幸福な家庭はみなよく似ているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸だ」というようなのがある。
だよね~、という感じ。

で、「不幸」というものを取り上げてみる。
しかし、客観的に測ることなどできないから、主観的に語られる不幸というものを考えてみる。
つまり、自らの不幸を訴える人の声を考えてみようというわけ。

私の周りの友人、知人の中で、
ずっと、知り合った頃から「不幸」を訴え続けている人が複数いる。
で、「あれ?」と思ったりする。
トルストイの名言を大きく裏切って、
「似てるぞ」となる。

共通点がある。
もちろん、私の周り(つまりサンプルとしては片寄っている)の人のことだから、共通点はあるのだろうが、
どの人もこの人も、とにかく、「被害者」。
キーワードは、「被害者」。

ある複数の人の共通点に気づいて思ったのは、
その人たちの「不幸」の理由は、他人に興味がないこと。
他人が、その人なりの論理や感覚を持って生きていることに想像力が働かない。
ただ、自分がエライ目に遭ったことしか念頭にない。
そして、そのことをひたすら訴え、
それを他人が理解して支援してくれないと、自分は二次被害を受けたと言う。
世の中は、自分への無理解と加害に満ち満ちている。
世の中は、自分を中心に回っているらしい。

もちろん、レイプ被害とか、セクハラ被害を訴えた人が周りの無理解に遭ってきて、その理不尽な対応に苦しんできた事実はある。
それを「セカンド・レイプ」と呼んで、私もそこには被害者の賛同者として、何度も支援の動きに加わった。
それは、この社会の問題だ。だから、変えていくべき課題だ。

が、上に述べた「被害者」たちは、そういうこととは一線を画している。
具体的な最初の被害の事例については大いに同情の余地のあることで、多くの人はうなずき、寄り添おうという気持ちを持つだろうと思う。
が、次の動きが、その人たちの不幸を呼ぶ。
自分の望むように理解されないこと、自分の身になって考えてくれないこと、自分と同じように苦しんでくれないこと、、、によって、傷つくのだ。
自分が苦しんでいるのに、他の人は、自分が苦しんでいる時間に楽しい時間を持っていたりすると、それは裏切りだ。
自分とは関係なく、他の人には他の人の人生がある、ということがわからならしい。
もちろん、理性ではわかっている。
が、気持ちが納得しない。
「みんな冷たい」「わたしはわかってもらえない」「二次加害じゃないか」と、まわりへの怒りを抱き始める。
もう、誰も信じられない。
彼女たちは、「被害」を掲げ、攻撃モードになり、周りの人たちの反応によってさらに「被害」を肥大化させ、あまりの「被害」の大きさに他のことが考えられなくなる。
自分の「不幸」に夢中になるのだ。

こうして、厄介な人物が出来上がる。

私は何人もの、こうした厄介な女性たちと知り合ってきたが、
ほとんどの人が、私のことには興味がなかった。
私の年齢も暮らしも何を考えているかも、聞かれたことがなかった。
私は、彼女たちの理解者、支援者としてしか、存在しない。
私の悲しみ、私の苦悩には、全く関心を払わない。
彼女たちは、他人が自分の役に立つかどうかだけで選別しているのだ。
そういう人が友人を持てるわけがない。

かくして、彼女たちはずっと不幸で、ずっと「被害者」なのだ。

実は、また一人、そういう人物が、私の活動範囲に登場してきた。
自分の受けたひどい仕打ちに夢中になっている人だ。
他の人が自分に関心を寄せないことを理不尽に感じる人だ。

他の人は、他の人で、忙しいんだ、とか、
ちょっと人を粗略に扱ってしまうことがある、とか、
むかつくことがあっても、お互い様かも、とか、
自分と同じくらい、他人も非力なんだ、とか、
思えないんだろうなぁ。
悪いけど、めんどくさい奴からは逃げるよ。

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