「いい人をやめる」ということ2017/09/13 20:24

前回の「いい人」でいようとして、頑張り過ぎたかなぁという言葉に、
何人かの方が反応してくださったので、
今一度、「いい人」って? と、考えてみた。

考えた、と言っても、ネットで、
「いい人をやめる」と検索してみただけ(^^)

すると、出てくるわ、出てくるわ、、、、たくさん、含蓄のあることばがあって、どれを読んでもなるほど~、と思う。

「いい人」というのは、結局、自分のことしか考えていない、という手厳しいことばもあるが、
それは、まぁ、仕方がない。
人に嫌われたくない、というのは、この社会の中で生き延びる以上、
必要な願いだ。

ただ、いい人過ぎるのは考え直してみよう、というような論調は納得できる。

あらためて、私は「いい人」でいようと頑張ったのか? と考えてみた。
義姉のためにひと肌脱ぐのはいやではない。
余裕がある間は、がんばりましょうと、無理なく思える。
と言うか、余裕があるのに、「断る」方が難しい。
やれることはやりましょう、というノリだ。
とすると、今、ちょっとしんどいのは、明らかに余裕がなくなってきたから。
余裕がないけど、ちょっと無理しちゃうのは、
「M吉さんには安心できるから、M吉さんの言うことなら、きいておこうと思う」と言う、義姉の思いを裏切りたくない、という気持ちがある。
それから、ケアマネさんと後見人さんの信頼を裏切りたくない、という思いがある。

つまり、一旦できちゃった良いイメージを維持したいと思うのだ。

「M吉さんには失望したわ」と言われたくない、
「なんだ、そんな人だったのね」と思われたくない、という感じ。
築き上げた良いイメージを維持したいのは、それまでの自分のがんばりを無にしたくない感じかなぁ。
でも、余裕のある時は、そんなにもがんばっていない。
疲れるけど、成果の方が大きい感じがある。

それは、たぶん、自己評価とつながっている。
「いい人」でない自分って、もう、何の価値もない自分だと思ってしまう。
「いい人」でいる自分は、自分でも許せる自分。

では、そんなに自分に対して厳しい目は誰の目?

これは、よく言われること。
子どもの頃、親に「いい子にしていなさい」と言われ続け、
「いい子」でないと、親に受け入られない、という経験をしたことが根源にある、と書いてあるサイトは多い。
つまり、「いい子」にしていないと、親は認めてくれない。
条件付きで、子どもへの愛情を出したり引っ込めたりする親の目が、未だに効いている、というのだ。

内面化された親の目。

もう生きていない親の目。
それ以外に、判断の基準を持たないから。

親の行為やものの考え方は、批判できるのに、
私をジャッジする目は、未だに親の目だ。
もはや自分のものになってしまった親の目だ。

良くも悪くも、私を構成する部分だ。

でも、疲れてくるとどうでもよくなる。
も~、嫌いになるなら嫌いになればぁ? と開き直る。
それも、私だ。
内面化されて私のものになってしまった親の目と、
ありのままで、だだをこねたがる私とのバランスの問題かも。