2009/02/07 18:56

青空に梅
先日、あまり天気が良いので、近所の梅林をぶらぶらした。

もう、ずいぶん、花をつけている。
春のように、うららかな日だった。

ふと、病気をした時のことが思い出された。来年の春は、自分に来るのか? と思った。なんとも、もの悲しかった。

そして、先に逝った人のことを思った。その人が逝ったのは、6月だ。
息も絶え絶えの人を見守る日々の中で、秋の話題が辛かった。入院していた病院が立て替え工事をしていた。秋には、新館が完成する、という話題が、苦しくて、息が詰まりそうだった。秋には、その人がいない、ということが、信じられなくて、信じたくなくて、耳をふさぎたかった。秋のことなんか、言うな! という感じだった。絶望が私を支配していた。それまでに味わったことのない、苦しみ悲しみだった。その辛さを回避できるなら、過去のどんな辛い時点でもかまわないから、時がもどってほしいと思った。
後悔なんかしたことがない、と、豪語していた私の、転換点だった。
脳天気で、楽天的な私の、人生が変わった時だ。

それ以来、私はずっと、暗い雲を頭上に戴いて生きている。それでいいと思っている。
もう、幸せを追求する気はない。
それでも、陽気な部分は残っていたらしく、お気楽にテレビのお笑いなどを見ながら、一人で笑っていたりするから、人間というのは、自分のキャパに応じた苦しみ方しかできないものだとは、思う。

噴水2009/02/08 01:06

梅林に行く前に、噴水の前で、美しい水の模様を撮った。
平日なのに、人が多いのは、天気のせいだろう。散歩の人が多い。
のどかな風景だった。

体調2009/02/11 16:33

光り物
一昨年、思いもかけぬ大きな病気をして以来、(ま、それ以前からだったのだが)、あんまり、健康に自信がない。体調が良くないと、すぐに、あまり先がないのかな、と思うようになった。

自分をこの世につなぎとめるものがない。
子どもたちは、すっかり大人になって、それぞれの暮らしを営んでいる。
子どもたちの父親はもう、先に逝ってしまったので、今や孫ができたからといって、一緒に喜ぶ人はいないのだから、今更、孫の顔を見ても切ないだけだろうし、子どもたちもその気はなさそうだ。

仕事をしている時は、仕事上の責任というものがあり、それが生きる目的になっているような日々だったが、今はそれもほとんどなくなった。

この世に用がなくなったのだ。
自分をこの世につなぎ止めるものがない、ということは、たぶん生きる意欲が薄まる、ということなのだろう。
松田道雄さんが嘗て、年をとると、世間が自分に用がなくなるように、うまくしたもので、こっちも世間に用がなくなる、というようなことを書いていたが、こんなに早くそのような境涯になるとは思わなかった。

一人だけ、自分より先に死なないでくれ、と頼んでくる友人がいる。私より8歳も年下だから、それは無理な可能性が高いと言うのだけれど、私よりも自分の方が先に逝くのだと、決然と言う。わかった、ちゃんと看取るから、と、妙な約束をしたりする。
昨年、同年の友人の一人が亡くなった。間を置かずに、別の友人の娘さんが亡くなった。元気に話をしていたことが、生々しく思い出される。人の死は、苦しい。胸が苦しくなる。死が、すっかり近くなった。
2003年の6月に先に逝かれた時から、ずっと、この、理不尽な出来事の意味を考え続ける。意味などないのに、考えてしまう。整理がつかないので、ずっと、考える。

私が向こうに行ったら、向こうで会うのだろうか。会って、何を言おう。この世で整理のつかなかったことの続きを考えるだけのような気がする。そのようなことを彼と共有できるだろうか。悲しい再会になるのだろうか。私は人生の連れを見つけることが出来なかったけれど、人生の連れって、いったい何なのだろう? と彼に尋ねても、彼も困るだろうな。私は誰とも組めず、私は私一人でしかなかった、のだと言えば、彼はなんと答えるだろう。結構、リアリストだった人だから、案外、「ま、そんなものだろう」と、飄々として言うかもしれない。そんな気もする。命ある間に、その境地に達したかったよ。

写真は、でも、好きな光り物。昨年のクリスマスイブだ。

光る物2009/02/14 14:17

川沿いの道
犬の散歩ついでに、ちょっと、足を伸ばした場所。美しい夜景だった。
最近、うまく撮れていないので、以前に撮った、まぁまぁ、きれいさが伝わるものを載せてみる。

もう一枚2009/02/14 14:24

川沿い
犬の散歩が、長引いて、夜になってしまったので、撮った。
携帯の割に、きれいに撮れているように思うのだけど。